チラシの宴。

 

 小学生の頃、つまり、70年代という時代に流行っていたもの

 に映画チラシがありました。

 

 当時ですら、一枚50円。ちょっと「格」がつくと、100円、

 時代を遡るにつれて、150円、300円、500円・・と値段が

 ついて行きました。

 

 地元で売っていたのは、鶴見駅ビルという、当時のデパートの

 6階、その切手売り場でした。

 

 切手もブームの頃でもあったので、

 切手を買いつつ、チラシをも買い求めるので、

 ほとんどのお小遣いは一時期、それらばかりに消えて行きました。

 

 例えば、チャツプリンのものなどは、当時大々的にリバイバル

 され、それが終わりかけた頃、確か150円から250円くらいの間で

 売られていました。

 

 自分が求めたのは、まず自分が見た映画であり、そして

 チャップリン、さらに有名な「ゴッドファーザー」、

 衝撃を受けた「2001年宇宙の旅リバイバル版などなど、

 

 当時名作と言っても、見られない映画の方が多かったのですが、

 中にはNHKで見た「禁じられた遊び」が金色仕様のリバイバル・チラシ

 もあり、350円くらいで買ったように記憶しています。

 

 そんなものを頻繁に買い求めに来る謎の小学生を売店の

 おばさんはどのような思いで売られていたのでしょうか・・

 ほとんど会話も、なかったように思います。

 

 今や廃刊になってしまった「ロードショー」という雑誌・・調べたら、

 なんと1972年に創刊したばかり、だったとは知りませんでした・・

 や今も出ている「スクリーン」誌などの別冊として、映画チラシ全集、

 というようなものがいくつか出ていました。

 

 そこには往年の映画のチラシが多々掲載されていて、そうした本からまず、

 どの時代にどんな映画があったのかを知識として得ていたように思います。

 

 特に今でも印象に残るのは007の亜流の映画群です。最近では

 いくつか見られるようになってきましたが、当時はどうあがいても

 見ることのできない、見たくてたまらない幻の映画群でした。

 

 また「2001年」の初公開時のチラシなどはそのまま原寸大で

 表裏を印刷してあるページもあり、それは切り抜いて買ったチラシと一緒に

 保存したりしました。

 

 ・・おそらく戸棚の奥の奥を探せば、それらのチラシは厚いファイルに

 入って眠っているはずです。

 そんなチラシ・ブームが去ったのも、80年台前半ではなかったでしょうか。

 やはりヴイデオが出てきたことで、作品をイメージとしてではなく、

 映像そのものを持つ時代に変わって行ったように思います。

 

 

 

 

 

「小さな恋のメロディ」騒動。

 

 それは、確か小学五年生くらいの時でした。

 

 当時、「小さな恋のメロディ」という、一世を風靡した

 映画がありました。

 

 初公開は、それより数年前でしたが、その頃、土曜の昼間の

 時間帯で「小さな恋のメロディ」が放映されたのでした。

 

 この作品のロードショー時の熱狂は、多分今では考えられない

 くらいのものだと思います。

 ・・かく言う、自分もその雰囲気には預かっておりません。

 ただ、当時の雑誌、ブロマイド、ポスター、レコード、

 などなど、アナログなメディアが繰り出した品々やその画像などは、

 数年たっても未だ巷のあちこちに見られたものです。

 

 そしてやってきたテレビ放映。

 自分たちの世代と等しく、ロンドンの小学生が学校に反抗心を見せながら、

 おそらく今では上映禁止になりそうなくらいの

 爆弾テロ(と言うほどのものではありませんが)を含めて、

 子供達の禁じられた遊びが続く中、

 女子と男子は恋の逃避行を企てます・・

 

 そうして映し出されるリアルな彼らの心理は、

 まさに自分たちの空気そのものでした。

 

 そうして土曜の午後が過ぎ、日曜が過ぎ、

 月曜の朝。

 

 なんと、登校して見たところ、隣のクラスの男女が

 手を繋ぎあって歩いている姿があちこちに現れたのでした。

 

 ・・どう言うわけか、自分たちのクラスでは全くそうした

 ことは起こらず、

 隣のクラスだけ、あの映画の恋物語が伝播したごとく、

 先週までそんな雰囲気は微塵もなかったその場末の小学校で

 突如現れた現象は一体なんだったのか。

 

 当時も今も謎のままです。

 

 自分はと言えば、虚しくレコードを買い、

 ビー・ジーズの美しいメロディに聞き惚れたものです。

 

 それはサントラLPとして買い求めた、多分

 最初のレコードでもありました。

 

 

 

昭和テレビの映画。

 

子供の頃、映画を最も多く見る機会は、毎日夜9時ごろから始まる

洋画劇場でした。

ネットはおろかビデオもなかった時代、家で見るにはリアルタイムに

夜9時に見るか、出なければ土曜などの午後での放映を待つしか

ありませんでした。

 

この土曜の午後の放送は、今のテレビ東京で毎日放映されている

昼の映画劇場の前身、と言えるものです。

多分、放送の形態として今と昔をつないでいるのは、このテレビ東京

番組だけかもしれません。

 

ただ残念なことに、今のテレビ放映は、特別なものでない限り、

映画解説というものがつきません。

昔は必ずと言って良いほど、特に午後9時からの放映には

解説者がついていました。

日曜日の淀川長治を始め、水曜の水野晴郎、月曜の荻昌弘

他に小森和子など、当時の「スター」とも言うべき映画評論家が

それぞれ独自の解説を行い、名文句も生まれました。

 

解説が必要だった理由は、それだけ当時は他に情報を伝える手段が

なかったことと、その頃は毎日のように放映される映画は

新しいものが半分弱で、大半は古い映画だったこともあります。

3分くらいの間に話される、

古い映画のスターや時代背景などの紹介によって、視聴者は

自然と映画史を学んでいたのでした。

 

いったい何度、「黄色いリボン」や「史上最大の作戦」のような

映画を目にしたことでしょうか・・

当然ながらこの時代、洋画をこの午後9時からの放映で初めて

見た、という子供は多かった、と言うよりほとんどだったと思います。

家では毎夜、そうして映画を見ていたものでした。

そしてこれは当時はごく普通のことだったのです。

 

なぜなら当時のテレビは、今と違い、ニュース番組など

ほとんどなく、バラエティも限られていたからです。

夕方五時から8時まではほとんどアニメか特撮、学園ドラマ、

そして野球だけが放映されていて、

8時からはプロレスやトーク番組、音楽番組、そして

9時からは毎日、必ずどこかのチャンネルで映画が放映されていました。

 

そしてこの頃は、日本映画が放映されることは滅多にありませんでした。

当時、「映画」と言えば、洋画のことだった・・ようです。

 

例外的に黒澤明映画が全作品テレビ放映、というニュースが話題に

なったことがありました。しかしこれも大半は深夜の放映だった

と思います。当時、禁止用語だった「白痴」がテレビ放映されたか

どうか・・多分、されなかったと思います。

 

NHK教育テレビでも、今は音楽や芸能番組を放映している

日曜の夜の時間帯は「名画劇場」として、古い映画を毎週放映

していました。そしてこれだけが吹き替えではなく、字幕だったので、

貴重な放映でした。

 

・・こうしたテレビ放映がなくなっていったのは、

一つにはヴィデオの普及があったことと、また一般的に新旧含めて

映画そのものが注目されなくなっていったこと・・恐らくは

90年代頃がその境だったように思います・・、で、視聴率が

取れなくなったこと、もう一つは全盛期の解説者が引退されたこと、

また後の世代が続かなかったこと、などが挙げられると思います。

 

 日々、当たり前のように古い名作が放映されていた

 この時代、それはそれで貴重な時だったように思います。

 

 

 

 

ぴあ発刊。

 今ではチケット販売サイトや映画紹介サイトとして知られ、

また本屋でも「(あれこれ)ぴあ」などの本がたくさん出ている

「ぴあ」は、最初は薄い映画情報誌でした。

 

 一月に一回、東京と近郊の映画館で上映されている

 映画リストと映画紹介だけで、その紙面はほとんど構成されていました。

 舞台やコンサートなども出ていたかもしれませんが、

 あまりそちらは小学生当時は興味がなく、覚えていません。

 

 買い始めたのは、創刊してから2年ほど経った、

 1974年頃です。

 本屋さんで立ち見して、鶴見文化の一ヶ月の映画スケジュールが

 出ていた上に、近くの映画館でのロードショーについても

 知らせてくれている。

 さらにそれ以上に、「ぴあ」を持っていけば50円割引になる。

 

 主婦がセールに惑わされるごとく「ぴあ」の割引特典は

 絶大な効果がありました。

 

 確かぴあの値段は、当時は100円だったと思います。

 つまり、100円の雑誌を買って、50円の割引で映画館に入る、

 という、コスパの悪い行動に出ていました。

 一月に何度も行くなら別ですが、当時は一ヶ月に一回、

 と家で映画館に行く規則がありました。

 

 「ぴあ」はだんだんに厚みを増し、値段も少しづつ上がって

 行きましたが、少し遅れて「シティロード」という新しい雑誌

 も出るようになりました。

 基本的に同じ路線の雑誌ですが、記事内容が少し違い、兄は

 競うようにこの「シティロード」の方を購読していました。

 

 今思い返せば、両者が互いの良いところを真似たことで、

 情報雑誌として充実し、今に至る情報サイトの枠組は、

 これらの雑誌が基盤となって完成されたように思います。

 

 言うまでもなく、両雑誌は、その後、東京方面で映画を

 見に行くようになり、また名画座や自主上映などに

 通い始める際には、なくてはならないものとなったのです。

 

 

 

 

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鶴見文化という場所 その1

 

  家の近所には鶴見文化という昔ながらの名画座がありました。

 調べて見たところ、2001年まで経営を続けられていたということです。

 今でも京浜急行の京浜鶴見駅に連なる、鶴見銀座という

 商店街がありますが、その裏道にあった座席数300強くらいの映画館です。

 

 ここへ初めて行ったのは、小学校でのなぞなぞが

 きっかけでした。

 当時、雑誌の付録にも出ていたクイズ、おばあちゃんが食べる

 プリンはなんでしょう?という友達からの問いがわからず、

 その答えをチャップリン。と聞いたものの、

 そもそも「チャップリン」が何なのか分からなかったのです。

 

 偶然にも、ちょうどその数日後、友達の一人から、チャップリンの映画が

 近くの映画館にやってくる、との話を聞いて、

 次の日曜日、朝から友達数人で見に行きました。

 

 その映画は「チャップリンのキッド」だったのですが、

 三本立てが通例のこの映画館では、一緒に「シンドバッド7回目の冒険」

 (今では「7回目の航海」と呼ばれていますが、リバイバル時は

 「・・・の冒険」だったのです)と

 「タワーリング・インフェルノ」を上映していました。

 今思えば、まさに映画入門とも言うべき贅沢なプログラムです。

 

 「キッド」の面白さはもとより、当時「スターウォーズ」も

 公開していなかったその時代、ハリーハウゼンの動かす

 怪物とシンドバッドたちの戦いに驚き興奮、

 「タワーリング・インフェルノ」の火災に巻き込まれた高層ビル

 からの脱出ドラマに感動させられました。

 

 付け加えますと、この作品の主演である、スティーブ・マックイーン

 ポール・ニューマンの顔をしばらくの間は取り違えていたままでした・・

 と言いますのも、当時最も人気のあったマックイーンは

 ニューマンよりもハンサムに違いない、と思っていたからでした・・。

 

 「キッド」には本当に笑い転げました。文字どおり、あまりに笑いすぎて

 映画館の椅子からずり落ちてほとんど床に座っていたほどです。

 斜め前にいたおじさん驚いたような顔をしてこちらを

 振り返っていた、その表情もよく覚えています・・

 ちょうどそれは、キッドが石を振り回してガラスを割り、

 後からチャップリンが新しい窓を売りに来る場面でした。

 キッドが唾を手につけて、石を振り回す様がともかくおかしかったのですが、

 今思えば、何がそこまでおかしかったのだろう、と思います・・

 

 しかしこれによってチャップリンの映画を未だ愛し続ける

 そのきっかけになったのは間違いありません。

 

 そして、鶴見文化は毎月一度、友達たちと通うべき

 遊び場となったのでした。

 

 

 

 

 

 

  

「2001年宇宙の旅」の旅。

 

 これまでに何度も見てきた映画「2001年宇宙の旅」、

 おそらく自己最高の回数です。

 

 そのようなことに至ったのは、あるいは最初に見たのが伝説のテアトル東京で、

 だったからかもしれませぬ。

 この時の上映は「スターウォーズ」などのSF映画ブームに掛けての

 リバイバル上映でしたが、ここだけでシネラマ上映がされている

 のを新聞広告で見たのだと思います。

 

 この地には、少し前までは銀座テアトル西友があり、

 今はまたも更地になってしまった場所に、

 事実上、日本一巨大な映画館があったことは有名です。

 その映画館、テアトル東京は座席が五階あるのみならず、記憶では

 劇場前の広場も、あたかも映画「クレオパトラ」の謁見の広場のように

 広大でした。

 

  当時、祖母と兄とともに、その広場に入り、劇場に向けて歩きながらも、

 その時の足取りではなかなか辿り着かず、行く前に祖母に買って

 もらった「まことちゃん」の人形を小脇にして歩き続けたのを覚えています。

 

 そうして始まった映画「2001年宇宙の旅」。

 「シネラマ」と呼ばれた三台の映写機による横長の巨大なスクリーンは

 確か二階の前の方で見ていても、両端が全く見えない、というくらいの

 広いものでした。

 

 当時、小学五年生の目線なりに、映画の概要を理解したつもりでは

 ありました。

 隣で祖母はほとんど寝ており、おそらく兄は熱心に見ていましたが、

 ほとんどその映画について話すことはありませんでした。

 当時のリバイバル用のプログラムにはちゃんとテアトル東京の文字が

 刻印されていましたが、その物語も読んでいたと思います。

 

 その後、日劇などで見直している内に、しかしその映画の真意は

 だんだんと明らかとなっていきました。

 子供の目線としては、単に理想的な人類の進化を描いているのだろう・・

 との思い込みは歳を経るにつれて汚れて行く目線とともに変わり、

 この作品がそんなに単純なものじゃないことに気づいて行くのでした。

 

 そうして今でも毎年、一度は必ず見直すこの作品は見るたびに

 解釈が少しづつ変わります。未だこの映画を超えるSF映画はない、

 との思いもまた募ります。

 

 多分、テアトル東京に出かけたのはそれ一度きりだったように

 思います。チミノの「天国の門」がロードショーとしては最後の作品

 だったのではないかと思いますが、その最後にふさわしい作品だった

 と思います。